2004-11-06
_ [雑記] 有名blog(笑)からのリンク
愛蔵太さんとこからリンクされちまったぜ。
(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
ってのは冗談で、まあ私の信頼しているblogerの1人なので光栄でっす。
_ [雑記] 文科系の論理センス
現役弁護士の方が書いたこんな記事がある。要は法曹関係者(弁護士やら裁判官)は、基本的な形式論理学の素養が全くないという話。もう例えばA and Bを否定すると(not A) or (not B)になることがわからないというレベルなんだそうだ。
その記事の中ではいわゆる理科系(と十把一絡げにするとあれだが、話が長くなるのでとりあえずざっくりと)の人からは冗談だろうといわれた話が紹介されているが、まあ文学部出身の俺からみればさもありなん、特に驚くことではない。「文科系をなめるな」といってやりたいね。
基本的に文科系(と十把一絡げry)の人たちは、そう言った技能的なものには関心がないというのが俺の印象だ。これには儒学の影響があるとかいわれているがまあそれはおいといて。議論や理論を構築するのに必要な諸々の技能というものをあまり重要視していないのだ。例えば論理学であるとか統計学であるとかだな。
じゃあ何を元手に理論を構築するかというと、それはもう自分の全人格をかけて、ってことになる。つまり事実(データ)から論理やら統計といった技術を使って結論に至るわけではなく(いわゆる新科学哲学の発見的文脈と正当化文脈とかいう話はおいておく)、全身全霊を傾けて考えて結論を導くのである。
なので文科系の学会での理論批判というのは、そのままその理論提案者への人格攻撃と捕らえられてしまう。理論というのは事実と論理による(ある意味)小手先技で導き出されたのではなく、その人の全人格の帰結であるからだ。「技」を持っていないなら「素」の勝負になるからな。
ちなみに裁判官は、裁判で提出される様々な証拠について、どれを信用して採用すべきかは、自分の自由意志に基づき決定することができる。これを自由心証主義と呼ぶが、この場合でも自由というのは何でもかんでも好き勝手にという意味ではもちろんない。いくつか当然制限があるわけだが、その中の一つに「論理法則、経験法則による制限」というものがある。つまり論理に沿って、経験法則(平たくいえば物理法則とかだな)に基づかなければならないわけだ。
論理学の基礎を知らない裁判官が、果たして論理法則によって制限されるものだろうか? そう言う状況では、結局自由心証主義ってのは何でもかんでも好き勝手ってことになるのではないだろうか?
ちなみに裁判官の経験法則についての知識の方も怪しくて、例えばある強姦殺人事件で、死体に付着していた唾液がAB型であったにもかかわらず、容疑者として検挙された者の血液型はO型とB型であったということがあった。裁判官は堂々と「A型の唾液とB型の唾液が混ざったのでAB型の反応が出たのだ」と宣ったという(『困った裁判官』より)。経験法則についての知識のない裁判官がry。
民主主義ってのは構成員が十分な教養があるという前提で成り立ってるからね。裁判所というのも民主主義を構成するための重要な組織なのは言うまでもない。
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